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浜本学泰が出来るまで⑧:「いよいよ憧れのファンドマネージャーに」

2003年11月、いよいよどうしても入りたかった独立系投資顧問会社に
「ファンドマネージャー」というタイトルで入社
させていただくことが出来ました。

fundmanager

これは異例中の異例なのです。

多くの運用会社は、入社の段階から

「アシスタント・アナリスト」
「アナリスト」
「アシスタント・ファンドマネージャー」
「ファンドマネージャー」
「シニア・ファンドマネージャー」
「チーフ・ファンドマネージャー」

という風に順番に成長していくわけですが、私は証券会社にはおりま
したが、定量分析の経験を除いては、営業しかしておりません。

リサーチをもとにした営業はさせていただいておりましたが、運用の
経験もないままに入社させていただいたのに、いきなり「ファンド
マネージャー」のタイトルをいただけたことは本当に光栄なことでした。

それと同時に、とても身の引き締まる思いに、体が縮み上がるような
思いでもありました。

どこでもそうですが、ある「タイトル」をもらったら、それなりの
働きが要求されます。

お給料もそれに見合ったお給料が支払われるからです。

米系証券会社の時も、29歳で「ヴァイスプレジデント」というタイトル
をいただいておりました。

これも、社内規定からすると異例の若い人間のタイトルでしたが、最大手
証券からのヘッドハントであることや、部門の立ち上げを任せるヘッドで
あったことから、過分なタイトルをいただいておりました。

今回も、「ファンドマネージャー」という過分なタイトルをいただいたこと
に対して、本当に感謝の気持ちと「夢が叶い、その第一歩を踏み出せる」と
いう大きな喜びに包まれておりました。

私が入社させていただいた独立系投資顧問会社は、2000年創業の若い会社
ではありましたが、当時で預かり運用資産2500億円、ファンドマネージャー
6名、トレーダー2名、その他バックオフィスや顧問の方々で総勢15名ほどの
会社でした。

運用会社というのは大きいところから、私たちのようなブティック型の少数
精鋭の会社までいろんな運用会社がありましたが、私たちは日本株式に特化し、
多くの会社がTOPIX(東証株価指数)に対して勝てるかどうかを競うのに対し
て、絶対リターン(預かったお金は増やして返すこと)をプラスにすることを
モットーにすることを目指す運用会社でした。

お客様からお預かりした大切なお金は必ず増やしてお返しすることを命題に
していた会社でした。

私以外の5人のファンドマネージャーは、皆さんいろんな投資顧問会社で
素晴らしい成績を上げたすごいファンドマネージャーさんたちだけでした。

その中でも私の師匠でもある社長は、日系証券会社のストラテジストを務め、
外資系投資顧問会社で運用部長を務め、伝説に残るパフォーマンスを残した
「伝説のファンドマネージャー」と呼ばれている人でした。

そんな中、私だけ、ど素人。

そんな環境の中、私のファンドマネージャー生活が始まるのでした。

さて、この先どうなっていくのか、今後に続く。。。。

浜本学泰ができるまで⑦:「仕組債を売るか、仕組みを創るか」

紆余曲折があって、米系証券会社に出戻りました。

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初めてその部署に出社してみると、本来ありえない部署間の異動なので、周囲の目線は冷たく、
現場のマネジメントも、なぜこいつが来たのか分からないという表情でした。

私に声をかけたのは、東京支社のプライベートバンキング部門担当の取締役なので、
現場には話が伝わっていないのです。

部長にも課長にも、「あなたは何をしに来たのですか?」といわれる始末。

ほかの人たちは、東半分の日本各地に顧客を抱え、株式や投資信託も販売するのですが、
それよりもトータル的な資産運用の助言を通じて、実は販売会社の収益性の高い「仕組み債」
を販売することを課されていました。

私はしょっぱなから「私は、前の部署でやってたことをこちらでやれと言われたので来ました。
それによってこの部署にコミッションを稼いで貢献するつもりです」と申し上げました。

現場のマネジメントはわかっていない様子でした。

私も、短ければ数か月、長くても半年くらいしかいないからと、今思えば、なめてた部分も
あったものと反省しております。

これが、この後自分を苦しめることになります。

数か月が過ぎ、前の部署の人たちとその時もコンタクトを取り、ファンドマネージャーの依頼によって
上場会社の社長とアポイントを取り、機関投資家のところにお連れする中で、上場会社の社長と
いろいろとお話をしたり、自社株の扱いについてアドバイスすることをしておりました。

そして、ご案内したファンドマネージャーから、その会社の株を大量に買いたいのだが、
オーナーと交渉をしてほしいと依頼がありました。

中小型成長株の場合は、流通している株式が少ないので、市場で買おうとしても大量には買えません。
大量に買おうとするとすぐに値段が上がってしまうので、まとまって持っている株主さんに直接交渉をして、
市場価格を参考にしながらまとめて売買する「ブロックトレード」というのを行うのが一般出来なのです。

異動して初めてブロックトレードの依頼が来たので、やっと手数料を稼げると思い、一生懸命
オーナーと交渉して有利な条件を引き出し、相手の投資家様との売買も成立して、喜んでいると、
ふと気づいたことがありました。

「あれ?この部署にどうやって手数料が入ってくるのかな?」

相手の部署に問い合わせても、今まで前例がないので、そちらに手数料を渡すことはできない
とのことで、今までも何件かそういう案件があったのだけど、全部手数料は投資家に販売した
部署がもらってた。そっちは、オーナーが株式を売ることでキャッシュが手元に入るのだから、
その資金を運用してもらったら手数料が入るだろ?

という言われようでした。

今までは、それで仕組債を買っていただいたりしていたらしいのですが、私は、「仕組債は売りません。
ブロックトレードで収益を上げます」と宣言してしまっていました。

これでは、私はこの部署にはいられなくなります。

ということで、関係部署や本社の財務部などに掛け合い、今まではほとんどなかったけど、今後は
プライベートバンキングの部署からブロックトレードの元になる株式を仕入れることが増えるから、
コミッションを分けられる仕組みを整えてほしいと粘り強く交渉をしていました。

なかなか交渉はうまくまとまらず、あっという間に半年の時間が過ぎました。

その間、私のコミッションはゼロです。

そろそろ私のクビが怪しくなってるのを気配で感じるようになってきました。

ブロックトレードの案件は、すぐにやろうと思ってできるものではなく、オーナーがまず株式
を出してくれる環境にあることと、投資家がその銘柄を大量に買いたいと思うかどうかがすべて
整わないといけないので、下準備やお膳立てがとても大切になります。

ようやく、各部署間の調整がつき、ブロックトレードをしたらプライベートバンカーにも手数料が
もらえるようになりました。

一緒なチームにほかに2人の先輩がいましたが、彼らは今まで1円ももらえずにブロックトレードを
行っていたのですが、その相手の部署から私が来たことで、初めて手数料がもらえる仕組みが整った
ことになります。

それから、3人で一生懸命案件を作る努力をしました。

そのお2人は、そういう不遇な目にあいながらも生き延びてきた人たちなので、恐るべき営業力を
発揮されました。

そうやって、ブロックトレードも決まり始めてきました。

何とか首の皮一枚でつながったというやつです。

そうこうしている間に、その部署での生活も11か月が過ぎるころ、ようやく弟子入りしたかった
投資顧問会社の社長から連絡がありました。

それまでも数か月に1度は食事を一緒にさせていただき、現状をお聞きする機会をいただいており
ましたが、なかなか「もう来てもいいよ」と言ってくれないので、半ば泣きつく形で迫ったという
こともあります。

それにしても、「しばらくしたらやめるかも」と思って異動して11か月。

とっても長くて辛い時間でした。

しかし、同時にいろんな部署の人たちを説得して新しい仕組みを創ることを学ばせて
いただきました。

私自身はその仕組みにより儲かることはありませんでしたが、私とともに必死になって
案件を作り続けていた先輩2人は、その年のボーナスで〇億円をもらったとお聞きしました。

私が残っていたらという気持ちもありましたが、私は夢に向かって進むことが出来たので、
それまでの二人の苦労が報われたのだと喜ばしい気持ちでした。

私自身は、2003年11月、あこがれの独立系投資顧問に入社でき、ファンドマネージャー
というタイトルをいただくことになりました。

さあ。こころから、夢にまで見たファンドマネージャーの生活が始まります。

胸をときめかせ、ものすごいモチベーションで毎日を過ごしておりました。

しかし、運用の現場は私が思っていた理想郷ではなかったのです。

次回以降は、運用現場の実際のところについて書いてまいりたいと思います。
次号に続く

浜本学泰が出来るまで⑥:「リストラそして救いの神現る」

さて、弟子入りしたかったファンドマネージャー社長さんには、
外資系証券会社に移籍するときに、「そんなところに行くなら、
うちに来れば良かったのに」と言われ、愕然として入社した米
系証券会社でしたが、本国の不振もあり、入社後半年でリストラ
されることになりました。

本来は悲しくて仕方ない「失敗」ということになるのですが、

私としては

「もしかして、あこがれの運用会社に入れるかもしれない」

と、わくわくしたのでした。

妻は、悲しみ嘆き、「最初の会社を辞めなければよかったのに」
という何とも残念な発言をしてしまうのでした。

リストラ勧告のあった翌朝、ありがたいことに30社程の上場会社や証券
会社から、お仕事オファーの電話をいただいたのですが、私としては、
弟子入りさせていただきたい先がありましたので、まずはそこの社長に
連絡をいたしました。

「社長、以前、私が転職する際に、「うちに来ればよかったのに」とおっしゃ
っていただきましたが、それは今でも生きてますでしょうか?」

恐る恐るお聞きすると、

「まぁ、いいんだけど。。。。では、会って話そうか」

ということになりました。

日比谷公園のレストランでランチをともにしながらのお話となりました。

社長から

「君には来てほしいと思うんだけど、少し事情があってね」

と話し始め、少し不安を覚えながらお聞きすると、

「今、ヘッジファンドを立ち上げたばかりなんだけど、これが100億円
くらいの残高になったら、君を雇っても、すぐクビにすることなく、
ずっと育ててあげることができるんだけど、今は、君に話たときから
ファンドマネージャーを別に採用したからすぐには採用できないんだよ。
うちに来たいなら、待っててくれるか?」

というものでした。

私は、

「ちなみに今の残高はどのくらいですか?」

とお聞きしました。

すると、

「今は20億円のパイロットファンド(練習もかねて実験的に立ち上げる
試験的なファンドのこと)なんだよ。これでパフォーマンスを出しさえ
すれば、すぐにお金は集まってくると思うんだ。」

とのことでした。

「どのくらい待つ感じになりますかね?」

とお聞きすると、

「そんなものわからないよ。2~3か月かもしれないし、1年かもしれない。
パフォーマンスと投資家がお金を入れるかどうかだから、明確には言えない」

というお答えが返ってきました。

ごもっともです。

はて、どうしたものか?

家族の生活費もかかるし、どれだけかかるかわからない状況で待てるのかどうか?

待ってでも、この人に弟子入りしたいと本気で思っているのか?

この時、私は自分が夢に対して、どれだけ真剣なのかを試されて
いるなと感じました。

私の意思は変わりませんでした。

すぐさま、

「はい。では何とかして待っておりますので、行っても良いという
状況になりましたら、絶対にお声をかけてください。私は、〇〇さん
に弟子入りさせていただきたいと思っておりますので、そのためなら
どういう風にしてでも生きております。」

と答えました。

大げさだと笑っていらっしゃいましたが、私の方は、妻にどう
説明しようかと思ってました。

で、こうなってくると、30件余りのオファーをお受けするわけ
には益々いかない状況となります。

早ければ数か月先、長く見積もっても1年以内には、せっかく入った
会社を辞めて、本当に行きたかった運用会社に行く可能性が高い。

となると、せっかくのご厚意で私にお声をかけてくださっている企業
やその担当の方に失礼である。

ということで、それらのオファーをすべて丁重にお断りしたのでした。

私には不安しかありません。

本当に待っている間、生きていけるのかどうか?

と、その時です。

突然、リストラされた米系証券会社の別の部署からオファーが来たのです。

「君は、そちらの部署で、中小型株ばかりやってたということで、
上場会社のオーナー社長をたくさん知っているそうだな?
そのキャリアをこちらの部署で活かしてみないか?」

というものでした。

その部署は、旧山一証券が破たんしたときに、買収した
「プライベートバンキング」の部門です。

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わかりやすく言えば、旧山一証券の一線級の営業マンだけを採用して、
超富裕層向けの資産運用サービスをしている部署でした。

この部署のお客様は、生半可なお金持ちではありません。

とてつもないお金持ちだけがお客様の部門です。

ライバルは、ゴールドマンサックスや、スイスのUBSなど、超富裕層の
金融サービスで定評のある会社でした。

上場会社のオーナー社長ということは、創業時の自社株が上場したこと
によって莫大な資産に膨れ上がっており、上場に伴い一部を売却しただけ
でも金融資産で数十億~数百億円という方がたくさんいらっしゃいました。

プライベートバンキングの部署が私に目を付けるのは当然でした。

私はプライベートバンク業務など興味がありませんでしたが、

「そっちでやってた仕事を、そのままこちらでやればよいから」

という多大なご理解をいただき、金融商品を販売するのではなく、
上場企業のオーナーに投資家対応のご提案をしたり、自社株の価値
を高めるアドバイスをさせていただいたり、たまには資産運用の相談
に乗ったりということができるのでした。

私は、その話に乗ることにしました。

理由は以下の2つです。

・業務的に上場会社のオーナー社長と機関投資家をつなぐ役割は継続
 できそうでファンドマネージャーになる準備の業務として、今までと
 同じことを継続できる。

・一度、裏切られている会社だから、あこがれの運用会社からオファー
 があったときには、辞めることに罪悪感を感じにくい。

というものです。

外資系証券会社は、部門が違えば、まったく別会社のような予算構成に
なっているから、印象としては別会社に行ってることに近いのですが、
表向きや心情も、「やられた会社に、やり返すので罪悪感は小さい」と
思えましたし、履歴書も「リストラ」から「異動」に変化できるという
メリットもありました。

ということで、結局は、同じ米系証券会社に出戻ることとなり、正式には
単なる「異動」となり、お詫びのために支給される「退職金」は、「賞与」
という形できちんと所得税が引かれて与えられることとなったのです。

これで、プライベートバンカーとして、上場会社や機関投資家とお付き合い
させていただきながら、自分がファンドマネージャーにある準備や勉強を
することができるという環境に進むことができたのです。

人生、何が起こるかわかりません。

こうして、しばしの隠れ蓑を手に入れたのでした。

と、安心したのもつかの間、この部署で、私はどんどん窮地に追いやられていきます。

実際に夢を叶えるのは本当にいばらの道を行かなくてはいけないのだなと感じました。

その模様は次号にてお話ししたいともいます。

浜本学泰が出来るまで⑤:「外資系証券会社での経験①」

2002年6月、リストラムード満点の中、私は、米系大手証券会社である
「メリルリンチ日本証券」に入社し、機関投資家向けに日本株式のうち、
中小型成長株だけを扱う専門家のセールス部隊を立ち上げる部門ヘッド
(といっても最初なので1人ボッチ、アシスタント1名)となりました。

これまでは、中小型成長株のファンドマネージャーの1部の方がお客様で
したが、この日からは日本株式の中小型成長株を専門に投資する投資家は、
日本国内外を問わず、すべてお客様となったのです。

とても、1人で担当できる数ではございません。

また、中小型成長株の特徴でもありますが、最初の師匠はアナリストとして
同じ会社のリサーチ部門にいらっしゃいますが、機関投資家向けの営業は、
しっかりしたリサーチ情報を提供するか、投資家がリサーチする際のお手伝い
するサービスを提供することによって、対価として大量の発注をいただける
というシステムです。

アナリストが1名なので、私もアナリスト業務のようなことをしながら、分析
して、それをお客様に伝えていく毎日でした。

そこで、圧倒的に感じたのが、会社の力の差です。

日系最大手証券にいた時には、いろんな部署があり、いろんな社員がいて、
何か疑問に思ったり、何か必要なことがあれば、その担当者に連絡すれば、
すぐに整いますし、ある上場会社にコンタクトを取りたいと思ったら、必ず
担当者がいるのでアポイントもすぐに取れたのでした。

しかし、米系証券会社は少数精鋭部隊です。

実力のある人たちが少数集う会社には、そういう便利なインフラはありません。

すべて自分でやらないといけないのです。

また、自分にやるにしても、国内最大手証券会社は、どの上場会社に行っても
知っていただいているので、アポイントも容易に取れますが、聞いたこともな
いカタカナ証券の名前を言ってもいかにも怪しいと思うらしく、アポイントを
とることから大変だということを実感しました。

そういう環境の中、地道に営業をしておりましたが、何かおかしなことに気づきました。

それは、

・きれいな女性の社員が多い。

・働いている外国人は日本にゆかりのある人を除いて、レベルはあまり高くない。

・社内にアイスクリームの自動販売機が必ずある。

ということです。

きれいな女性が多いのは、いいことです。

しかし、問題はその質です。

高い実力を備えた素晴らしい女性社員もたくさんいらっしゃいますが、
そうでない人もたくさんいるのが実態です。

これにはとても驚きです。

そして、外国人の従業員ですが、基本的に欧米人で日本株を東京でやっ
ているというのは、米系証券では「花形」ではありません。

なので、とても一緒に働く仲間としては、水準が高くないなというのが
正直なところです。しかも、自分の成績がかかっているので、貪欲に仕
事をとりますので、うかうかしていると自分の仕事もとられます(笑)。

そんな彼らは、夜になると六本木に繰り出して、外国人目当てに来ている
日本人女性と朝まで遊んでいるという感じで、やっと日本語を覚えてきた
と思ったら、十中八九「女性言葉」なのです(笑)。

もちろん、素晴らしい外国人の同僚もいらっしゃいます。

素晴らしい人格を持ち、紳士で、誰からも尊敬され親しまれている人。

そういう人は確かにいらっしゃるのですが、たちまち転職されるか、
本社に戻ってしまうことが多いのです。

外資系では、どんなに頑張っていても、外国人の上司に嫌われたらす
べてが終わります。

日本人の上司にいくら気に入られていても、いくらたくさん稼いでいても、
外国人のトップに嫌われたら最後、命はありません。

また、外資系は、実力主義の印象があるかもしれませんが、完全なる学歴
社会です。

しかも、「MBA偏重学歴主義」。

どんな経歴でも、どんな人柄でも、MBAをとってくれば、いきなり好待遇に
なります。

私のように、ヘッドハンティングをされてきているものは、良いのですが、
そうではなく普通に4年制大学を出て入ってきた若者たちは、えらくなるのに
とても時間がかかるということを思い知るため、途中でやめてMBAをとりに行き、
前よりは格段に良い条件で、外資系証券会社に戻ってくるのです。

まぁ、ここまでイメージと現実が違うことが多いものだと感動しておりました。

そんなある日です。

日経新聞にあるニュースが大きく取り上げられました。

「米系メリルリンチ証券 NASDAQ値付け業務から撤退」

これは、グローバルで中小型成長株から撤退するという決定でした。

ニューヨークの本社で決められた「グローバル決定事項」でした。

もれなく、それは東京オフィスにも届きます。

私が入社してから約半年目のことです。

東京オフィス内は、それまでも業績不振によりリストラムードでした。

しかし、それにさらに輪をかけて、成長株市場のリストラが行われました。

ある日、夕方まで外交に出ていた私は、社内のざわざわに気づきました。

「だれだれが首になった。だれだれも首になった」という話が聞こえてきました。

そして、夕方、席に戻ると、電話が鳴りました。

「人事部の〇〇ですが、〇〇会議室に来てもらえますか?」

「きたーーーーーーー」(来なくていいのに)

リストラ

ということで、グローバル決定に従い、東京オフィスでもアメリカ株
だけではなく、日本株式においても中小型株からは撤退するということ
で、中小型成長株部門を育成するという東京オフィスの決定事項は、
破棄されることになりました。

「でも、東京オフィスのヘッドの〇〇さんは、中小型成長株は儲かるから
伸ばしていくとおっしゃってましたよ。日本株だけは別なのでは?」

と、私が申し上げると、人事の人は、

「ごめんなさいね。〇〇さんもリストラになりました」

「がーーーーん」

ということで、私は転職後半年で見事にリストラされ、その晩、送別会
で思う存分お酒をいただくことになりました。

私の師匠は、中小型株から、別の業種のアナリストとして転換することで、
同社に残るということで助かることができました。

ずっと、私に「すまない」と謝ってくださっていました。

しかし、すべては自己責任です。

私は、とりあえず、今後のことは翌朝起きてから考えることにして、
寝ることにしました。

驚いたのは、翌朝から鳴り響く電話の数でした。

ほかの証券会社はもちろんなのですが、これまで取材や投資家を紹介して
きた上場会社から「投資家対応のIR部門へ来てくれ」というお電話が、
実に合計30件くらいかかってきたのです。

とてもありがたいことで、涙が出てきました。

これまでの仕事の成果が結実したのかと、うれしくなっておりました。

が、

そんなはずはありません。

私の師匠が、申し訳ないということで、知り合いの上場企業に私のことを
採用するように依頼してくださっていたのでした。(本当にありがたいことです)

その時、私の頭に一つの人物が浮かびました。

「野村證券を辞める時に、来れば良かったのにと言ってくださったあの方」

です。

さっそく電話をして、

「〇〇さん、私、首になりました。この前うちに来ればよかったと
おっしゃっていただいたのは、生きていますか?」

とお聞きしました。

第一声

「ほら、だから言ったじゃん」

「がーーーーーん」」

もう、言葉もありません。

その通りでございます。

さて、この後、私はどうなっていくのでしょうか?

投資家になるまでの紆余曲折は、次号以降で書かせていただきたいと思います。

浜本学泰ができるまで④:「機関投資家向け営業時代」

さて、ハラハラドキドキ、ファンドマネージャーが顧客の営業部隊に配属
されました。

私は、営業前線の精鋭として配属されたのではなく、「営業店経験があり
リサーチが分かるやつ」というレッテルで配属されたものと思われます。

先日の不祥事でお取り潰しになったその部署は、国内外の機関投資家を顧客
として、主に株式を販売する部隊でございました。

私はその中でも、「中小型成長株」を専門に扱うチームに配属となりました。

fundmanager

中小型成長株とは、東証1部の誰でも知っている企業ではなく、創業間もなく
して上場したような新興企業を専門に扱う部隊で、お客様も中小型成長株に
投資するファンドマネージャーということになります。

トヨタ、パナソニックといった主力銘柄は扱わず、楽天、ライブドアといった
新興企業の株式を専門に販売する部隊です。

何が違うかといえば、主力株にはすべて担当アナリストがついて、取材して
分析を行い、銘柄のレポートが発行されるので、その内容などをいち早くお伝え
して、注文をもらうということすればよいのですが、中小型株の場合はアナリスト
がカバーしていないものがほとんどなので、私達セールス部隊も、積極的に上場
企業に取材に行き、インタビューをしてその内容などを投資家にお伝えしたり、
上場企業の社長様を直接投資家のところにお連れしてミーティングを行っていた
だくというサービスを行う対価として、注文をいただくということでした。

私はリサーチの経験も生かし、いろんなデータ分析を投資家のためにして差し上
げたり、いろんな企業オーナーを投資家に紹介することで、たくさんの注文をい
ただくことができ、私自身もファンドマネージャーさんたちと毎日会話させてい
ただき投資のヒントをたくさん教えていただける毎日がとても楽しく、いつしか
その部署の中でもそれなりにご評価いただけるようになっていきました。

私は、将来の夢をファンドマネージャーかディーラーかということで考えており
ましたが、その頃は、短期よりも長期と思っていたのでファンドマネージャーに
なりたいと強く思うようになり、それに近づくために全力を尽くすことをしてお
りました。

そして、毎日多くのファンドマネージャー様といろんな議論をさせていただく中で、

「弟子入りさせていただくにはどなたが良いだろうか?」

「尊敬出来て、師匠と呼ばせていただきたい方はどなただろうか?」

という観点で、いつもファンドマネージャーの方たちと接しておりました。

2年ほどすると、お二人に絞られておりました。

投資哲学がしっかりしていて、銘柄選択のレベルが高い独立系投資顧問会社があり、
その社長でありチーフファンドマネージャーの人は、いわゆる「カリスマファンド
マネージャー」の中では群を抜く存在の人で、すべての証券会社のセールスやアナ
リストからは、恐れられている人でした。

私はその人の担当となり、最初はいろいろと難しいことを言われましたが、なぜか
私を気に入ってくださり、いろんな難しい難題を次から次へと与えられ、全力で答
えていくという日々が続きました。

ますます私を気に入ってくださり、「いつかこの人に弟子入りしたい」と思ってお
りました。

しかし、その投資顧問会社は、ファンドマネージャーが6名の独立系投資顧問会社で
預かり資産は約2500億円。少数精鋭の運用業界のオールスターチームのようなとこ
ろで、業界でも一目置かれる運用会社でした。

さらに社長の個性もとても強く、リサーチの姿勢も厳しく、到底素人が門をたたける
ようなレベルの会社ではありませんでした。

私には、「私を弟子にしてください」とお願いする度胸はありませんでした。

そしてもう一方、尊敬できるファンドマネージャーがいました。

国内最大手の信託銀行の中小型株のファンドマネージャーで、その人が推奨する
銘柄はすべて激しく値上がりするので有名でした。

「なぜこの人は上がる株が分かるのだろう」

と不思議に思っていたものでした。

その人も業界では「とても鋭い方で分析も深い方で、中小型株はその方に聞け」という
のが常識でした。

とても鋭い方なので、浅はかな知識や調査では、瞬く間に内容を見透かされ、話を聞い
てもらえなくなるかもしれないと、恐れているセールスもいました。

私はその方をとても尊敬しており、この人からも是非とも学びたいなと思っておりました。

と思っていると、この後者の方が、信託銀行を辞めて、米系大手証券会社にアナリスト
として転職するというニュースが流れました。

バイサイド(投資家)から、セルサイド(証券会社)への転身。

私の行きたい方向からは逆方向の転職でした。

お客様でいてくださるうちは、いろいろと教えてくださる機会もあったのに、ライバル企業
に転職してしまっては、その人との関係も希薄になってしまうなと落ち込んでいた矢先の事
でした。

「一緒にやるパートナーを探してるんだけど、君、私と一緒にやらないか?」

というお誘いをその方からいただいたのです。

こんなにうれしいことはありません。

弟子入りしたいと思っていた方からお誘いをいただけるなんて。。

将来はファンドマネージャーになりたかったので、証券会社に転職したら、それは実現できない
のですが、前述の独立系投資顧問会社の社長に弟子入りを申し出るレベルに成長するために、と
てもありがたい機会であり、本当に興味のあったその方の「上がる株の選び方」を学べるチャンス
と思い、ぜひその方に弟子入りしたいと思いました。

そして、国内最大手証券会社から、米系大手証券会社(かつては最大手米系証券会社)への転職
が決まり、私は中小型成長株部門の立ち上げを行うヘッドとして、ヘッドハンティングを受けた
形となりました。

転職するということは、お客様方にご挨拶の連絡を入れるわけですが、すべてのお客様に転職す
る旨をお伝えしておりました。

前述の独立系投資顧問会社の社長とお話しした時でした。

「なんであんなアメリカの会社にいっちゃうの?野村證券をやめるなんて思わなかったよ。
やめるんだったらうちに来ればよかったのに。。」

「えぇぇぇぇぇっっっ」

「もっとはやくいってくださいよぉぉぉぉーーー」

と思いましたが、そんなことを言い出す度胸が私にはありませんでしたので無理でしたが、
無謀にも言ってみたらよかったんだなぁなどと反省しました。

しかし、もう米系証券には転職するサインをしてしまっているので、やめるわけにもいき
ません。

結果としては、先に米系証券会社でその方の下で弟子入りできたことが大きな資産となり
ますので、お誘いいただき本当によかったと実感するわけですが、その当時としては少し
後ろ髪をひかれる思いで、国内最大手証券会社から、米系大手証券の中小型株部門のヘッ
ドとして2002年6月に移籍することになったのです。

以下、次号以降に続く。
外資系証券で体験した、日系とは違う、恐るべき現実が明らかに。。。。。

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