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『広告を着た野球選手 史上最弱ライオン軍の最強宣伝作戦』山際康之

『広告を着た野球選手 史上最弱ライオン軍の最強宣伝作戦』山際康之(河出書房新社,2015年3月刊)

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「ライオン軍」を中心に、プロ野球草創期の姿を描いた力作です。

 

わが国初の職業野球チームである日本運動協会が発足したのは大正9年のこと。しかし、学生野球人気が過熱する当時にあって、《野球を商売にすることへの軽視もあって、一つしかないチームの興行は思うようにはすすまなかった。》(本書p.11)。さらに関東大震災の発生により、日本運動協会は解散。その後を受けて、かの小林一三の支援の元に宝塚運動協会が創設されるも、これまた興行は不振であり、解散。しかし、昭和6年の日米野球=全日本チームは読売新聞が呼びかけた投票によって選抜された選手で構成された=は興行的に大成功を収め、ここから正力松太郎による複数チームの職業野球リーグ構想が動き出します(現在の視点でみれば「複数チームがなければ野球の興行なんて成り立つわけないだろう」と思うのが当然なのですが、それ以前の「協会」時代には、職業野球のチームは1チームしかなかったのです)。

 

紆余曲折の末に、昭和11年2月、日本職業野球連盟の設立総会が開催されます。加盟した球団は7球団。「株式会社大日本東京野球倶楽部(東京巨人軍)」「株式会社大阪野球倶楽部(大阪タイガース)」などの名前に混じって「株式会社大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)」「株式会社大日本野球連盟東京協会(大東京軍)」といった妙な名称の球団があることが、日本職業野球連盟の発足に至る経緯がいかに混沌としていたかを物語っています。その直前まで、日本職業野球連盟とは別のリーグ創設を画策していた田中斉(新愛知新聞社主幹)は、日本職業野球連盟の設立総会で《日本職業野球連盟に加盟しました大日本野球連盟の田中です》と挨拶しているのです。

 

しかし、独自のリーグを発足させることのできなかった、その程度の資金力や人脈しかなかった大日本野球連盟東京協会=大東京軍は、選手の数を揃えることすらままならず、一方で大東京軍の実質的な経営トップである田中斉は、見通しもないままに新球場の建設をぶち上げる。そうした大風呂敷を実務に落としこむのは、野球のルールも知らないまま田中に請われて大東京軍の専務に就いていた鈴木龍二(のちのセントラル・リーグ会長)でした。鈴木の尽力により完成した新球場は、しかし、海辺にあるために満潮時にはグラウンドどころかスタンドまで潮が満ちてくる始末。鈴木は野球を知らないはずなのに(知らないがゆえに?)たった一度の敗戦で監督をクビにしてしまう。当時まだメジャーリーグには参加できなかった黒人選手を招聘するも、これも鈴木の意に沿わず、わずかな期間で帰国させてしまう…

 

そんな苦しい大東京軍の前にあらわれた救世主が、「ライオン歯磨」を製造販売する小林商店(のちのライオン株式会社)でした。新たな出資者となった若き経営者の発案により、《広告にお金を惜しまない熱心な会社を見つけてタイアップすること》に乗り出した大東京軍の営業訪問に、小林商店の若き社長であった36歳の小林喜一は、即決でスポンサーとなることを承諾します。そして、小林商店は、破格のスポンサー料を提供する見返りに、大東京軍のチーム名を、商品名である「ライオン」とすること、リーグ戦の期間外にはライオン歯磨のPRのために地方を巡業することを求めます。

 

最初はスタンドの観客から「商売人!」「いくらもらったんだ!」などの野次を受けていたライオン軍は、小林商店の特約店を試合に呼びこむことで、徐々に(いまふうにいえば)ビジネスモデルを確立していきます。ライオン軍を応援する小林商店の特約店は、いまふうにいえば、Jリーグのサポーターに近い存在かもしれません。

 

そんなライオン軍の活動は、チーム発足からわずか3年半で終焉を迎えてしまいます。戦争の影響で、「ライオン」というカタカナ言葉の使用が禁じられたためでした。

 

本書は、そこで終わりではなく、ライオン軍に関わった人々の戦後の姿までを、丁寧に描いています。丁寧といえば、本のつくりも非常に丁寧で、多くの図版や写真が盛り込まれています。文章もとても読みやすく、野球ファンならずとも、スポーツ、文化、広告等々に関心のある方におすすめの本です。

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