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2014年10月15日 の投稿一覧

浜本学泰が出来るまで③:「証券マンとしてのスタート」

そんな風にして最初の就職先を選んで、1996年の4月に日本最大手の証券会社に入社いたしました。

入社した同期の数は120名。

同社の歴史上、最も少ない総合職採用数です。

よくも入れました。

さすが、人材の質を誇る会社です。

研修制度が素晴らしく整っております。

入社後は丸2か月間の研修プログラムが用意されておりました。

最初は、いきなり今までの価値観を破壊され、せいも根も尽き果てるところまで追い込まれるところ
から始まります。

そして、へとへとになったところで、会社の理念や自分たちのあるべき姿の像を叩き込まれます。

精も根も尽き果ててますので、いとも簡単にイニシエーションされていきます。

そして、2か月を過ぎたころには、「野村證券の新人」というものが出来上がるのです。

最初の配属は、私の強い本社勤務の希望をよそに、地方の支店でした。

中部地区の人口35万人の都市の支店。

本社でマーケットの仕組みを学び、3年で外資系に転職するつもりだった私はひどく落胆しました。

配属は、身内や友達が誰もいない地域に行かされます。

しかも、研修中に全員の性格診断テストを受けさせられており、まったく性格の違う同期と一緒に
配属されるのです。

同期が一緒にいても、仲良くなれない人を一緒に入れるので、本当に身内が一人もいない状況を作り
その中で、どれだけ成果を出す人物なのかということを徹底的に検証されるのです。

そこで2年半の個人営業を担当しました。

毎日飛び込み営業を繰り返し、一人ひとりお客様を作っていく毎日でした。

時間がたつにつれ「目標」という「ノルマ」はどんどんと増えていき、毎月その数字に追われるという
毎日。

しかし、そうやっているうちに、どんどん力がついていくシステムなのだということは、その当時は
知る由もないのです。

気づいたら、私は中部地区でも頻繁に何かのジャンルで成績優秀者に選ばれるまでになっていました。
一時期だけこういう風に表彰される人はたくさんいるので、特に優秀な営業マンだったわけではないと
思います。

ただ、毎日、成果を出すことに必死に取り組んでいたことだけは間違いありません。

そして、営業だけではなく、証券アナリストの資格試験も最短の2年で取得し、本社に早く行けるように
アピールしていたのでした。

目の前にことを一生懸命やることの大切さや、人と人とのつながりの大切さ、人の温かさなど、今では
私の宝物になるような経験をたくさんさせていただきました。

2年半の支店生活を終え、ようやく本社勤務となりました。

2つ目の配属先は、クオンツリサーチ(定量分析)の部署でした。

ロケットサイエンティストといわれ、1980年代後半から米国の金融市場では、宇宙工学を勉強するような
頭の良い人たちをたくさん採用して、膨大なデータを分析して法則性を見出してモデル化するというような
ことを盛んにしていました。

私の配属先はまさにそういう部署だったのです。

行ってみて、恐ろしいところに来たことがわかりました。

平均学歴が、東京大学の理系の修士課程を修了した人たちです。
PhDを持った人もぞろぞろいます。

私のように、文系の4年制大学を卒業して、支店で営業してたものが行くと、「完全なるバカ扱い」です。
あいつは何をしに来たんだ?というところから始まりました。

最初に言われた仕事は、「じゃ、最初はわからないだろうから、この株のPERを求めるプログラムを書きなお
しておいて。1週間上げるから。余裕だよね?C言語だから簡単だから。」というものでした。

「プ、プログラム?」

私は、子供のころ、本を見ながら、Basicという言語を書いて、画面上に図形を書いて喜んでいたことはあり
ますが、プログラムなんて書いたこともありません。

C言語って聞いたこともない。

1週間、C言語の勉強を必死にして、何度も書き直しても動きません。
プログラムというものは、たった1文字間違えていただけでも正しく動かないのです。

それで1週間がたち、結局、完成させることはできませんでした。

「すみません。1週間必死にやりましたができませんでした。あと少し時間下さい。」

と頼みに行ったら、

「しょうがねえなぁ。こうやってやるんだよ。」

といわれ、その人は15秒ほどで書き直してしまったのです。

完全なる洗礼を受けた形でした。

program

その部署でも必死にプログラムを覚え、何とか仕事ができるようになってきました。
すると、お客さんを担当することになりました。

その時のお客さんは、投資顧問会社のファンドマネージャーの人たちです。

その人たちが実際の運用の時に使う「銘柄選択モデル」「アセットアロケーションモデル」
「リスクモデル」を開発することだったり、ある投資戦略に基づいて「シミュレーション」
を行うことなどでした。

実際の運用現場のファンドマネージャーが使うモデルの開発や、シミュレーションをさせて
いただいたことは大変有意義な経験となりました。

それよりも何よりもファンドマネージャーの人たちと一緒になって問題を考え、どうやった
らパフォーマンスが向上するのかということを真剣に考え、想定して、検証するというくり
返しでした。

この2年間で私の運用に関する知識は向上し、データを扱うことにもなれ、私の開発した
自動売買モデルや、銘柄選択モデル、為替の比率を決めるモデルなどは、今でも実際の
運用現場で使われていると思います。

でも、さすがに、1日一言も会話のないような静かな部署に2年間もいると息が詰まってきます。

ということで、またもや異動希望をだし、もっとフロントに出たいということを希望しました。

すると、ファンドマネージャーがお客さんである営業部隊へと異動になりました。

支店での営業経験はありましたが、まさかお客さんが全員ファンドマネージャーの営業マンに
なるとは夢にも思わず、私のディーラーとかトレーダーになる夢とは近づいているのか離れて
いるのかわからないままに異動となるのでした。

そんなすごい営業マンばかりがいる部署への異動。

不安ばかりが募りましたが、実はここからが私の人生に大きな変化が生まれてくることは、
この時は知る由もありませんでした。

以後、次号に続く。

浜本学泰が出来るまで②:「就職 マーケットで稼ぐ決意」

大学で外国為替を学び、実体経済で使えないということをもどかしく感じながらの就職活動。

「絶対にプロのディーラーか、ファンドマネージャーになってマーケットの仕組みを学びたい」

「そして、相場の世界で大成功したい」

dealer

そういう思いがこみ上げました。

ですから、自然と就活先は、銀行、証券、商社などになります。

おもに銀行を回りましたが、当時、外為専門銀行だった東京銀行は、私の思いを正面から受け入れてくれましたが、その合併先の銀行に同じ話をしたところ、


「あのねぇ。銀行員っていうのは、一つの事だけをやりたいと思ってもダメなんだよ。すべての業務をきちんとできるようになって一人前の銀行員になるんだよ」

といわれました。

実は、東京銀行は、私の就職する平成8年の4月に合併することが決まっていました。
 

合併先の銀行の人に私は、

「そんなことを言っているから、ゼネラリストばかり生まれて、日本の金融機関は世界で競争力がないのではないですか?」

と、「米銀の復活」という本を脇に抱えた私は申しておりました。

その人はかんかんになって怒りましたが、その銀行の人事から電話がかかってきて、

「君の鼻っ柱の強さはとても良いので、次の人事にあってほしい」と連絡がありました。

後ろで東京銀行の方が強烈にプッシュしていたのは間違いないと思います。

4月からの合併を控え、後ろで就職活動の連携をしているようでした。

その両銀行は丁重にお断りをしました。

一方、ディーラーとして大成功するには、外資系に入らないと大きなお金はもらえないと認識しており、外資系の銀行、証券も受けてみることにしました。

受けた感想は、

「英語も話せず、スキルもない自分がいきなり入るところではない」というものでした。

では、どうしたらよいのか?

生まれ故郷の地方銀行からは、「君が来てくれるなら、人事の慣例を無視して、1年目からディーリングルーム勤務を約束する」というお言葉も届いておりました。

すると、ある方からメッセージをいただきました。

「外資系金融機関で活躍している人たちを最も多く輩出している会社を知ってるか?」

というお話しでした。私の耳はダンボになりました。

「それは、野村證券だよ」

「えぇ。あのノルマ営業で有名なあそこですか?」

と驚くのもつかの間、自分の夢のためならあえて厳しい方に進むのが私の選ぶ道。

また、私はマーケットの仕組みを知り、そこで勝負をしたいと思っているので、対象は為替でも株でも債券でも何でもよかったのである。

そして、ご縁あって、「ノルマ証券」に入ることができたのでした。

さあ、3年で実力をつけて、外資系に転職だ。

そういう誠に失礼な思いを胸に、4月の就職を迎えるのでした。

 次号に続く。。。。。

浜本学泰が出来るまで①:「マーケットとの出会い」

 これまで、証券マンやファンドマネージャーとして多くの相場師とお付き合いさせていただき、心から尊敬する多くの相場師の方々と出会いました。

 彼らの考え方や人となりが、皆さんのトレードにもきっと役に立つと思います。

 今後は、時間を見つけては、私の実体験としての相場師の話を書いていこうと思っています。

 まずはということで、自己紹介を兼ねて、自分の事を書いていこうと思います。

 私は伝説の相場師ではありませんが、自己紹介ということでご容赦ください。

market

 まず、私が初めて相場に興味を持ったのは、中学生のころです。

 ちょうど、1985年のプラザ合意という事件があっって、その後1年をかけて、ドル円相場が250円から150円に変動しているときでした。

 毎日夕方のニュースのトップで、「本日の為替相場は、○○円○○銭となりました」というニュースばかりが報道されていました。

 私は子供ながらに、「お金とお金なのになぜ値段が変わるのか?」「なぜ、それがトップニュースになるのか?」という疑問を持ちました。

 為替相場の事を知りたい!!と強く思いました。

 しかし、周囲に知っている人はいませんでした。

 「銀行で聞いてきたら?」と言ってくれる人がいました。

 しかし、中学生の私は、銀行に行って質問する勇気がありませんでした。

 そこで、自分の周囲の中で最も社会の事を知っている人に聞くことにしました。

 それは、、、、、、社会の先生です(笑)。

 社会の授業が終わった後、私は先生のところに行って、「最近、ニュースで為替相場の事ばかり言われていますが、あれはどういう仕組みになっているのですか?」と聞きました。

 先生の答えは、「では、職員室に来なさい」でした。

 職員室に行くと、そこからはお説教が始まりました。

・子供のくせにお金に興味を持つとはとんでもない
・お金に興味を持つ暇があったら勉強しなさい

というような内容だったと思います。

 「で、分かりましたが、仕組みを教えてください」といいましたが、「そんなものわからん」といわれてしまいました。

 要は自分が分からないから、説教をしたということです。

 何というひどいありさま

 そんなこともあり、私の疑問は、モンモンとしたまま時が過ぎました。

 高校時代は、野球部に入り、為替相場の事など少しも思い出すこともなく、ゴジラ松井との対戦だけが思い出に残ります。あとは、PL学園にコールド勝ちしたこと。

 大学に入り、3年生になり、自分の専攻を決める時が来ました。

 ここで、自分の人生を左右するかもしれない選択を迫られ、私は自分自身というものをもう一度、分析することにしました。

 私は、やはり中学生の時に疑問に思った「外国為替」が気になって仕方ない。

 というよりも、マーケットというものが気になって仕方ありませんでした。

 原材料を買ってきて、製品を作り、売ると儲かるのは理解できる。
 商品を安く仕入れてきて、利益を載せて販売するのも理解できる。
 普通の人ができないサービスを提供して対価をもらうことも理解できる。
 

 しかし、変動している相場というもので売ったり買ったりして儲かるという仕組みだけはどうしても理解できないし、何とも言えない魅力を感じてしまったのでした。

 そこで、ゼミの専攻は「外国為替」ということになったのでした。

 ゼミでは、国際金融論から、外国為替相場決定モデルなど、いろんな学術的な研究や論文を読むことができました。

 そして、卒業論文のテーマは、「外国為替決定モデルの有効性の実証研究」ということになりました。

 机上の理論である外国為替相場決定モデルといわれている「為替相場算定式」の実際のマーケットによる回帰分析を行うことで、決定モデルの有効性を問うものでありました。

 私の論文の結論は、

「机上の理論である外国為替相場決定モデルはいずれも実際のマーケットでは、有効性に疑問がある。有効な結論が出ないのである。実際の相場を当てるには、テクニカル分析など、実体相場を分析する手法の方が有効である」

というものでした。

 今思えば、論文としてはひどい結論だったと反省しております。

 担当教授からも、「論文としては最低だけど、合格にしてあげるよ。社会人になったらもっとちゃんとやるんだよ」といわれる有様でした。

 しかし、この時の結論は、実際のマーケット人生において、正しかったということが実体験として証明されてしまったのでした(笑)。

 近いうちに、教授に遭うことになりますので、その辺をアピールしたいと思います。

 こうして、私のマーケットのかかわる人生はスタートしたのでした。

 ・・・次号へ続く。

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