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そばにいる言葉
Posted by vanilla on 2008年3月20日(木) 11:10
ミルクティーを飲みたくなった。
ふと思いつき、紅茶葉をミルクと共に煮出してスパイスを加え、チャイにする。
このカップは、実は中国茶用のマグ。
←茶譜でのマグと同種
中に茶漉しが入っていて、引き上げれば茶葉だけ取り出せる。
家にティーストレーナーがないので、チャイの葉をこれで漉しました。
私のマグの柄は金魚です
中国ではモチーフに意味があり、
金魚は中国語では「お金が余る」という意味の“金餘”と発音が同じことから、
金運がつくおめでたいシルシなんだそうです。
でも私はいつもカツカツ。江戸っ子気質だからかしらw
~閑話休題~
なぜかチャイを飲みたい気分になったのは、多分この表紙のせいでしょう(笑)。
ビッグイシューの最新号。
谷川俊太郎氏が面白いことを書いている。
一対多が基本の走り去る文明のコトバは、
だから手足をもたないコトバ、カラダを忘れたコトバ、
頭脳だけに支配されたコトバではないでしょうか。
作者が見えないコトバが教科書にも新聞にも雑誌にもブログにもあふれています。
自分の人間としての器によってコトバは立ち止まりもするし、走り去りもする。
コトバより大事なもの、体ぐるみの行動が必要ではないでしょうか。
~ 『走り去るコトバ、たたずむコトバ』より
身振りや表情が付加することによって、言葉の意味や重みは変わる。
それはわかっている。
でも言葉のみでコミュニケーションをはからねばならない環境だったら?
実は、私の今の仕事がそうだ。
見えない分、人は他の感覚を研ぎ澄まして意味を汲み取ろうとする。
カラダぐるみの行動をもってしても、人間としての器が小さいとその意味を取りこぼす。
その器はでも、行動を重ね、経験を積み重ねることでしか広げられない。
すべては発信者と受け取り手双方の、言葉の扱い方ひとつだ。
発する言葉で、自分という人間がはかられる。
それを考えたら、誰しもが自分の言葉に責任を持つだろう。
今の世の中にどれほど、主を無くしたコトバが溢れていたとしても。